この人に聞きたい:第94回
(週刊水産タイムス:07/06/04号)
田中社長インタビュー
(株)ニチロ 代表取締役社長 田中 龍彦 氏
北洋の覇者から総合食品会社へ
――創立100年の大きな節目を迎えた。100年の歴史を持つ企業は日本でもそう多くない。
田中龍彦社長 一口に100年といっても、その歴史はとてつもなく長い。統合・再編の激動の連続の中で生き抜いてきたのがニチロの100年だったと認識している。
――歴史的には、(1)創業期から戦前まで(2)戦後から200海里時代まで(3)総合食品会社の確立、という3つの時代に分けられると思うが。
田中 2人の青年が北洋に出発したのがニチロの始まり。カムチャッカに戻ってくるサケを漁獲して、陸(おか)の上で塩蔵品や缶詰に加工するという陸上加工業の会社だった。明治の人は気宇(きう)壮大というか、日本全体が貧しかった中で、当時は余るほどあったサケ資源に着目し、日本人のタンパク源を確保するという大切な役割を担った。
同時にもう一つ偉かったなと思うのは、世界に伍して事業を展開していかなくてはならないと、最新型の米国の機械を導入し、缶詰の量産化を図ったこと。美味しい缶詰を作るにはいい塩が必要だと英国から輸入もしている。品質へのこだわりは創業期からあった。当時の缶詰に記されている「消費者ニ味方スルモノハ最後ノ勝利者ナリ」は、ニチロの原点になっている。
――それから日本は戦争へ突入。戦後は北洋のサケ・マスを中心に漁業花盛りの時代を迎える。
田中 今にして思えば、民間会社の事業というより、「国民への食料供給」という国策に近かったのではないか。閣議で出漁を決めていた記録も残っている。「ベニサケがなかなか食べられなかった」と記録されているが、食べなかったのではなく、経済的な理由から、貧しくて食べられなかったというのが本当だろう。それからは200海里時代の本格的な到来まで、北洋漁業史に燦然と輝く“漁労会社としての全盛時代”が花開く。次から次へと船をつくった。利益率も今と比較できないほど良かったはずだ。それが200海里で漁業からの撤退を余儀なくされるまで続いた。
――200海里で漁業から撤退するようになると、会社の経営状況はいよいよ深刻になる。もはや漁業では食っていけない。しかも社員は多い。
田中 昭和50年ごろの話だが、入社試験で内定を出したものの、入社直前で内定取り消しとなったケースもあった。結果的に純粋無垢な若者を裏切ることとなり、当時のマスコミに随分叩かれている。会社は昭和50年に無配に転落して23期も続いた。東証の無配連続記録で3位になるらしい。
――辛い記録だ。トンネルの出口が見えないような、まさに苦難の時代だった。
田中 加工食品会社として、合理化と再生に向けて新たな道を探り出したわけだが、食品事業の基盤づくりはそうたやすくない。冷食事業にしても黒字になったのは昭和54年から。漁労事業が中心だった時代は、一網で1億、2億という話。一生懸命合理化に取り組んでも、ようやく5000万円のコスト削減ができた、わずかな利益が出せたというのでは、体質的に力が入らなかったのかもしれない。漁労部門のOB会では華やかなエビソードが多いし、そういう時代は生きてこられた先輩たちは結束力も強い。
――その後、いくつもの苦労を経て、加工食品会社として再生を果たす。
田中 昭和の終わりから平成にかけてはマーケットの担い手に大きな変化が生じてきた時期だ。スーパーマーケットが町の鮮魚店、精肉店、青果店をつぶしながらどんどん拡大していった。小売業全体の規模は変わらなくても、マーケットの担い手が変わってきた。食品の安全・安心と言われだしたのもこの頃だ。食品業界の王様だった雪印が一つの不祥事であっけなく歴史を閉じた。メーカーは「ウチも同じことになったら大変」と一斉に襟を正した。
――食品会社としての基盤を確立するのも大変なこと。
田中 スーパーは大型化、拡大を続け、もはやつぶす対象がなくなりつつある。今は売り場面積を増やしても売上高が減る時代。マーケットの構造が変わり、「川上インフレ、川下デフレ」で、メーカーもこのままでは生きていけない段階まできた。
「誠実」に消費者の味方貫く 発展・拡大し続けてこそ企業
――そういう中にあって、ニチロは100周年を迎え、総合食品会社として新たな発展を期している。
田中 思えばこの100年、ニチロが生きてこられたのは、メーカーに重心を置いてきたから。私自身も社長就任時よりメーカー志向を掲げてきた。ただ、メーカーとして生きていくための基本的条件もいくつかある。
――衛生・品質管理の徹底も欠かせない。
田中 「ボロは着てても心の錦」というのは歌の上の話。技術があり、機械が良ければ工場が古くてもいいという考えは通用しない。今は外回りから生産設備を整えていかないといけない。それも最新の設備で。あとは技術をどう伸ばせるかだ。
――商品開発も大切だ。
田中 ニチロは中華炒飯や焼きそばも重点商品だ。商品開発も出尽くした感がある中で、あとは技術的な要素を取り込んだ新たな角度から差別化を図っていくことが大切になってくるだろう。
――当面の設備投資は。
田中 直近の話では久里浜工場を閉鎖して、大江工場を増設した。最終ユーザーの希望をかなえられるのが優れたメーカー。消費者志向もだんだん高度になってきた。それに追いついていけないメーカーは脱落する。ヒット商品となった中華炒飯にしても赤坂璃宮の味を取り込んだことで付加価値の高い商品になった。
加工食品の生産で徹底した合理化に努めてきた。次の段階としては集中化。市販用冷食は重点アイテム11品で売上げの50%を占めるまでにしたい。
――マルハとの経営統合を控えているが、今後の水産事業の展望は。
田中 経営統合後に設立する4つの事業会社の一つ。水産は基本的にマルハを残し、ニチロの水産を切り離して持っていくような形になるのではないか。ポイントは海外市場の開拓だが、単独では限界がある。海外ビジネスを成功させるにはパワーもスピードも必要。マルハの五十嵐勇二社長も以前から大型のM&Aをやりたいと言っているが、何をするにも100億円単位の資金が必要になる。
食品会社は水産と逆の形になるだろう。いずれにしても売上高1兆円規模の会社。それだけにコミュニケーションが求められる。会社が有楽町にしても、大手町にしても、あるいは別の場所であったとしても「同じビルに一緒にいる」ことが理想だ。
――事業会社の名称はどうなるのか。
田中 持株会社の「マルハニチロホールディングス」にニチロの名がある。ただ、一番大切なことは何かを考えなくてはならない。常に発展・拡大を模索し続けるのが企業であり、縮小では活力がなくなる。ニチロのマインドを若い世代に伝えていくことが我々の使命。事業会社の名称はこれから決められるが、どのような名前になろうとも、「誠実」を旨とするニチロのスピリットは変わらない。